2001年11月17日
母の誕生日
今、日本は一番美しい時期だ。秋晴れの日が非常に多く、朝夕はゾクッと来るくらい肌寒いこともあるが、たいてい清々しい。
最近このコラムもサボっていたので、何か書こうと思って先ず日付を打ったら母の誕生日であることに気がついた。昭和3年生まれだから満73歳になる。いつまでも元気で居て欲しいと言う気持ちは万国共通のものだろう。
子供の頃は良く叱られた。サラリーマン家庭だった我が家は、父は仕事の虫で、残業も多く家の主導権は母が完全に握っていると言う印象だった。結構躾は厳しい方で、小学校を出るまでは、夜8時が消灯時間で、父はテレビを見ている。私は布団に潜りながら、その8時から始まるコンバット(メッチャ古いなぁ?!)というアメリカの戦争ドラマの番組を覗き見ながら眠っていったのを覚えている。
中学に上がり、高校生だった頃には、それなりのイデオロギーを持ち、どちらかと言えば左寄りの思想に傾注していった時期などは、保守的な母とは真っ向から対決して大喧嘩になることもしばしばだった。そのへん男である父は達観したもので、「お母さんもムキになるな。ヨシオもそのうち分かるから」と第3者的傍観者を通していた。確かに大学に入る頃には、中間的なバランスを持つ男になっていった訳だ。
高校生までは、喧嘩の応酬ばかりが目に付いた母との関係だったが、大学受験の時期から、母と私の様相が変わっていった。妙に優しくなったのだ。当時の受験地獄と言うものは、今のそれよりも気楽なものだったかもしれないが、それでも大変な時期で、毎日毎日参考書や受験専門の問題集の丸暗記に慣れるように詰め込み式の現代教育と同じパターンは既に始まっていたと言えよう。しょっちゅう徹夜もしたし、最後の正月明けには脱水症状で入院までした。母は、そうして苦労している我が子の集中力を削がないようにと、夜食やコーヒーや涙が出るほど嬉しい気配りを連日続けてくれていた。
親の有り難さを身に染みて感じたのは、この頃だ。父は相変わらず家庭では寡黙で、受験当日の朝、「頑張れよ」と言ってくれたことしか記憶にない。それはそれで凄い一言だった訳だが、そのことを凄いと思えるのも実は、母の優しさと子供の為だったら自分はどうなっても良いと心底思える親の自然な態度なんだと思う。良く考えて見ると、夕食も自分は残りもんで済ませるのに子供にはご飯もおかずもやたらとてんこ盛りっていうような事は、幼い頃から続いていたことだった。理屈ではない親の自然な愛情と言うものを学ぶ事が出来たと言う意味で、受験戦争の時期は非常に有意義だったと振り返る事が出来る。第2志望の大学に無事合格することも出来たけどね。
今日は銀座で飲み会がある。赤いブローチでも買って帰ろう。